【大牟田市】2025年、日本は戦後80年を迎えます。今一度、平和の尊さについて考えてみませんか。
2025年、日本は戦後80年目を迎えます。1945年(昭和20年)8月14日、日本政府はポツダム宣言を受諾し、翌8月15日に昭和天皇がラジオ放送で終戦を国民に伝える「玉音放送」を行い、太平洋戦争は終結することとなりました。
1941年(昭和16年)12月8日、日本軍の真珠湾攻撃およびマレー半島上陸によって太平洋戦争が開戦しました。開戦後、日本軍は戦線を拡大していきましたが、1942(昭和17年)年6月の米軍とのミッドウェー海戦で大敗し、以降は物量に勝る米軍に対し劣勢を強いられます。そして、太平洋戦争末期の1945年春には天一号作戦が発令されました。これは、沖縄に来攻する連合国軍に対して、当時世界最大であった戦艦大和を旗艦とする第二艦隊全ての艦艇を敵兵力に体当たりさせる、いうなれば「海上特攻」ともされるものでした。このとき、大和に座乗し第二艦隊の司令長官を務めたのが三池郡高田町(現みやま市高田町)出身の伊藤整一海軍大将(当時海軍中将。以下伊藤氏)でした。
伊藤氏の墓碑は現在、大牟田市岬町にあります。
伊藤氏は1890年(明治23年)、三池郡高田町に生まれました。高等小学校卒業後は旧柳河藩藩校の流れをくむ中学伝習館(現伝習館高校)を経て海軍兵学校・海軍大学に進みました。1927年(昭和2年)には駐在武官として米国に赴任し、名門エール大学に学びました。その後は連合艦隊兼第一艦隊参謀長や海軍軍令部次長等の海軍の要職を歴任し、1944年(昭和19年)に第二艦隊司令長官に親補されます。
かつて米国に居住し、その圧倒的な国力を理解していた伊藤氏は、対米開戦の声が高まった際には戦争回避を強く主張していました。また太平洋戦争開戦後、戦勝気分に湧く国内においても、日本の将来に対して大きな危機感を持っていました。
天一号作戦が下令された際も、伊藤氏は作戦が無謀で戦略的合理性を欠くことから強く反対しました。しかし、連合艦隊司令部の「一億総特攻の魁(さきがけ)となって頂きたい」という言葉を聞き、やむなく同作戦の指揮を引き受けました。
1945年4月6日、伊藤氏率いる第二艦隊は沖縄を目指し出撃しました。しかし、米軍が制空権を握っている中、航空機の援護がない艦隊は数百機もの米軍艦載機から猛烈な攻撃を受け、大和には左舷に集中して10発以上の魚雷が命中します。そして14時17分、大和は艦底が露出するほど傾斜して復元不可能となり、誘爆を伴い鹿児島県の坊ノ岬沖で沈没します。このとき、伊藤氏も艦と命を共にしました。
大和の傾斜が復元不可能となった際、伊藤氏は独断で作戦中止を決断し、大和の乗組員に対し退艦を命じました。この決断により、多くの若者が命を失うことなく生還することができました。
太平洋戦争が終結してから80年目を迎える2025年、現在も世界の多くの地域で戦争が続いています。戦後の日本の発展は、かつて国を守ってくれた多くの方々、また戦争の犠牲となった多くの方々の命を礎として成り立っています。
戦後80年を迎える節目となるこの夏、平和の大切さと命の尊さについて、今一度考えてみませんか。
伊藤整一海軍大将の墓碑はこちら↓